🎐 潯珩亂筆 138 - ✨訳すことで、かえって見失うもの

翻訳とは、ただある言語を別の言語に置き換える作業ではないのだと、ようやく分かってきた。

本当に難しいのは、訳すべきか否か、どう訳すか、そして何を「余白」として残すべきか、その判断にある。

かつて同時通訳の現場で、こんなことがあった。登壇者が非常にローカルなジョークを飛ばし、会場は爆笑に包まれた。通訳者の言葉は正確で文法も完璧だったが、その瞬間、場の空気は凍りついた。笑いの本質は文章の中にではなく、文化の中に、そして共に生きてきた経験の中に隠れていたからだ。その情景を生きていなければ、直訳はユーモアを温度のない部品の山へと解体してしまう。

古文や詩歌を深く愛する老学究の翻訳も見てきたが、そのたびにどこか歯痒い思いがした。言葉を知らないのではない。字面に忠実すぎるあまり、言葉が本来「文脈(コンテクスト)」の中で呼吸していることを忘れてしまっているのだ。

翻訳が「正確さ」だけを追求したとき、それは「正しさ」を失いやすくなる。

翻訳とは、本人の「認知の投影」なのだ。言語は孤立したものではなく、その後ろに見えない大きな「網」を引きずっている。そこには訪れた場所、交わした対話、沈黙すべき時、そして語るべき瞬間の記憶が詰まっている。

🕸️ その「網」が厚ければ厚いほど、翻訳の判断は揺るぎないものになる。翻訳は技術の誇示ではなく、取捨選択の美学なのだ。

語りすぎてしまえば、台無しになる言葉がある。角度を変えて初めて、すとんと腑に落ちる意味がある。真に優れた翻訳は、時に一文を訳すことを捨て、その場の「空気」を訳すことを選ぶ。

ゆえに、翻訳とは言語間の仕事ではなく、自らの認知を用いて異なる領域の間を調停する作業なのだ。

一言のあとに「退路」を残してやる術を知ったとき、私たちはようやく翻訳を理解し始める。

翻訳の限界を決めるのは、語彙の量ではない。どれほど多くの文脈を「生きてきたか」なのだ。



—— 🎐 潯珩亂筆 | XC Scribbles · 壹佰參拾捌 CXXXVIII 🕸️

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