🎐 潯珩亂筆 117 - ✨千と万のあいだ

最初にマレーシアやシンガポールの人たちが「十千」「五十千」と言うのを聞いたとき、私は少しだけ違和感を覚えた。

意味は分かる。理解できないわけではない。ただ、どこか引っかかる。文の流れの中で、小さな転調が抜け落ちているような感覚だった。

同じ華人文化を共有しているのに、なぜ「万」を使わないのだろう。

後になって気づいた。実は現代の主要言語の中で、「万」を基本単位として残しているのは中国語圏くらいだ。古代ギリシャ語には「ミュリアド(myriad)」という一万を示す語があったが、やがて比喩的表現へと吸収され、数の構造からは消えていった。英語圏では「thousand」を積み重ねていく構造が主流で、そこに飛躍はない。

そのとき理解した。これは数学の問題ではない。視点の問題だ。

「千」はまだ数えている単位だ。一つ一つ積み上げていく感覚がある。

しかし「万」は、すでに少し離れた場所に立っている。細かく数えず、全体を見渡す視線だ。

中国語には「万」が多い。万物、万象、万民、万古。それは正確さではなく、スケール感だ。天地のあいだに立ち、世界の広がりを感じる感覚。

以前の私は、「なぜ?」と追いかけていた。誰が先か、どちらが正しいのか。なぜ万を使うのか、なぜ使わないのか。起源を辿り、真理を探し続けるうちに、最初の違和感を忘れていた。ただ「少し不順だ」と感じただけだったのに。

やがて分かってきた。言語の度量衡は統一のためにあるのではない。それぞれの文化の中で、人が自然に生きられるようにあるのだ。

千単位で安心を積み重ねる人もいれば、万単位で地平を見渡す人もいる。優劣ではない。立っている場所が違うだけだ。

「万万成億」という構造の中に、私は天と並ぶほどの想像力を見る。それは精密さではなく、豪放さ。制御ではなく、世界の広さへの信頼。

言語が本当にしていることは、正しい計算方法を教えることではない。私たちがどの位置から世界を見るのかを、静かに決めているのかもしれない。



—— 潯珩亂筆 | XC Scribbles · 壹佰壹拾柒 CXVII 🔢卍

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