『Battle after another』を観た。 評価は真っ二つで、絶賛する人もいれば、強く否定する人もいる。
最初は、単なる「見方の違い」だと思っていた。 でも、だんだん違うと気づいた。
人々は違う角度で見ていたのではなく、 違う地点で止まっていただけだった。
前半の混乱、粗さ、落ち着かなさだけを見て、 テンポの悪さや刺さる感情、近づきにくい人物像に耐えられず、 そこで結論を出して席を立つ人もいる。
私は、座り続けた。
やがて分かってきた。 不快に感じた部分はミスではなく、 意図的に残された余白と摩擦だったのだと。
前半の「観づらさ」は、 既存の理解の仕方を手放すよう、静かに迫っていた。 意味を急いで掴もうとするほど、焦りだけが増えていく。
後半に入ると、 雑音のようだった断片が、少しずつ噛み合い始めた。
その瞬間、はっきり分かった。 作品が乱れていたのではない。 私が急ぎすぎていただけだった。 構造がなかったのではなく、 構造は後から現れるものだったのだ。
観終えたとき、心の中で静かな変化が起きていた。 嫌悪は理解に変わり、 理解はゆっくりと好意に変わっていった。
作品が迎合してきたからではない。 私が、この作品が求める距離を歩いたからだ。
人生も、きっと同じだ。 転換点は出来事の中にあるとは限らない。 「もう一歩、進むかどうか」にある。
私たちは、不快な場所で立ち止まり、 評価という盾で自分を守りがちだ。 でも、ある理解は、忍耐の向こう側にしか存在しない。
すべての混乱が、すぐに修正される必要はない。 いくつかの粗さは、 後でしっかり立つために残されている。
転換のあと、世界が簡単になるわけではない。 変わるのは、あなたの立つ位置だけだ。
その場所には、 最後まで見届けた者だけが辿り着く。
—— 潯珩の亂筆 | XC Scribbles · 貳 II 🎬